不況の折、リストラにあってしまった。50代前半の独身男、友人なし。この先の希望が見つからず命を断とうかとも考えたが、幸い貯金だけは人よりあるので、とりあえず命の洗濯をしに温泉にでも行こうかと思いついた。
都内から特急列車で1時間半。旅館の最寄駅で送迎バスに乗り込んだ。オフシーズン、しかも平日ということもあり、バスに乗っているのは私一人だけだった。旅館に着くと、早速女将が出迎えてくれた。美しいがキツそうな顔立ち。能面のような表情。口コミに書くとすればこれだけで減点1だ。
部屋に案内され、荷物を片付け貴重品を金庫にしまい鍵を閉めた。早速この旅館自慢の風呂に入ろうと着替え一式、それから部屋と金庫のカギを持って大浴場に出向いた。HPにあった通り、露天風呂からの眺めは最高だった。こうしていると、嫌いだった年下の上司にリストラを告げられたときのことが遠い昔のことに思え、もやもやしていたものがすっきりしてくる。
風呂から上がり、ここ数日なかったいい一日だったなと思いながら着替えをビニール袋にしまおうとしたとき、部屋と金庫のカギがないことに気づいた。慌てて部屋に戻るとドアは開いているし、金庫も開いている。もちろん中身は空っぽだ。フロントに行き、事情を説明すると、先の女将が事務的に警察を呼んだ。警察が現場検証をしている間、旅館の人間は一人も姿を見せなかった。旅館側の冷たい対応に憤りが込み上げてきたが、過失は自分にあるのでどうにもならない。翌朝のチェックアウトの時も、女将は能面のような冷たい態度だった。二度と来るか、と思った。
帰りの送迎バスの中で、ふと、浴場に行くときに女将とすれ違ったことを思い出した。そういえばあのときだけ女将は「どうぞごゆっくり」と笑顔を見せたのだった。ふと、本当に過失は自分にあるのだろうかと思った。「二度と来るか」思いがけず出た低い声に驚いたように運転手が振り返った。